曲の紹介(雨の慕情)
【曲 名】雨の慕情
【アーティスト】八代亜紀
【作詞】阿久悠
【作曲】浜圭介
【レーベル】テイチク
【概 要】
1980年4月25日リリースされた八代亜紀の30枚目のシングル。
同年の第22回日本レコード大賞、第11回日本歌謡大賞を受賞する大ヒットとなった。
【記事引用元】雨の慕情-Wikipedia
【記事引用元】八代亜紀-Wikipedia
曲について
この曲は、雨の情景を背景に、失った愛への切ない思いをしっとりと歌い上げています。雨というモチーフは、晴れやかで明るいことの真逆で二人の悲しく許されない恋を象徴しているかのようです。
出だしの歌詞では、いつも主人公の女性の膝にもたれて恋人が煙草を吸っていた情景が浮かび、主人公の別れた恋人への未練が、膝が重さを覚えてるというフレーズで見事に表現されています。
心が忘れたあの人も 膝が重さを覚えている
長い月日の膝まくら 煙草プカリとふかしてた
(引用元:八代亜紀「雨の慕情」)
サビの部分では、「雨々ふれふれ もっとふれ」というフレーズが繰り返されます。これは、おそらく「晴れること」は妻子ある恋人の世間に許される生活で、「雨が降ること」は恋人と許されない恋の生活を表現していると想像できます。
許されない恋と分かっているけれども、愛する恋人と会いたいという気持ち、叫びが謳われています。
雨々ふれふれ もっとふれ
私のいい人つれてこい(引用元:八代亜紀「雨の慕情」)
「雨の慕情」は、八代亜紀が演歌界で確固たる地位を築くきっかけとなった楽曲となりました。彼女はこの曲で日本レコード大賞や日本歌謡大賞など数々の賞を受賞し、その年の紅白歌合戦では大トリでこの「雨の慕情」を歌いました。この楽曲は、彼女の代表曲であるだけでなく、日本の演歌、歌謡曲の名作として今なお多くの人の心を打ち愛され続けています。
曲の動画
- 八代亜紀『雨の慕情』(1980年シングル・バージョン:TEICHIKU RECORDS)
- 八代亜紀 / 雨の慕情(日本コロムビア 公式YouTubeチャンネル)
アーティストの紹介(八代亜紀)
【アーティスト】八代亜紀(本名:橋本 明代)
【誕生日】1950年8月29日(2023年12月30日73歳没)
【出身地】熊本県八代郡金剛村(現在の八代市)
【活動時期】1971年-2023年
【公式サイト】八代亜紀オフィシャルホームページ
【公式サイト】八代亜紀 – UNIVERSAL MUSIC JAPAN
アーティストの軌跡
八代亜紀は、日本の演歌歌手、女優、タレント、画家であり、熊本県八代市出身です。彼女は幼少期から父親の歌う浪曲を聴きながら育ち、その影響で歌に興味を持ちました。小学5年生の時にジュリー・ロンドンのレコードを聴き、そのハスキーボイスに魅了され、自身もクラブ歌手になることを目指すようになりました。
15歳で上京し、バスガイドとして働くも人前で話すことが苦手で3ヶ月で退職。その後、地元のキャバレーで歌手として雇われますが、父親に勘当されて東京へ移ります。上京後は音楽学院に通いながら喫茶店で学費を稼ぎ、銀座のクラブで歌うようになります。1971年にはテイチクから「愛は死んでも」でデビューし、その後オーディション番組『全日本歌謡選手権』でグランドチャンピオンとなり、一気に知名度が上がります。
1973年には「なみだ恋」が120万枚を売り上げる大ヒットとなり、その後も「舟唄」や「雨の慕情」など多くのヒット曲を生み出しました。「雨の慕情」は1980年に日本レコード大賞を受賞し、彼女は“演歌の女王”と称されるようになります。1982年にはセンチュリーレコードへ移籍し、その後も多くのヒット曲を発表し続けました。
晩年にはジャズやブルースにも挑戦し、多様な音楽スタイルを展開しました。2012年にはジャズアルバム『夜のアルバム』をリリースし、世界デビューを果たします。また、フランス・パリでの公演も成功させ、多くのファンから支持されました。
八代亜紀は音楽活動だけでなく、ボランティア活動にも積極的に参加しており、女子刑務所への慰問公演や被災地支援など多岐にわたる社会貢献活動を行っていました。
2023年12月30日、残念ながら急速進行性間質性肺炎により73歳で亡くなりました。
彼女は2024年2月7日に熊本県民栄誉賞と八代市名誉市民証を授与されることが発表されるなど、その功績は今なお多くの人々に賞賛され感動を与えています。
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