愛人 / テレサ・テン

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曲の紹介(愛人)

【曲 名】愛人(あいじん)
【アーティスト】テレサ・テン
【作詞】荒木とよひさ【作曲】三木たかし
【レーベル】Polydor/PolyGram、EMI、Taurus Record
【概 要】

1984年1月21日にリリースされた15枚目のシングルで、発売元はトーラスレコード(のちに解散、現在はユニバーサルミュージック)だった。
全日本有線放送大賞、日本有線大賞では前年度リリースの「つぐない」に続き、2年連続の受賞を記録した。

【記事引用元】テレサ・テン-Wikipedia
【記事引用元】愛人 (テレサ・テンの曲)-Wikipedia

曲について

この曲は、1984年にリリースされた「つぐない」と同じく、作詞荒木とよひさと作曲三木たかしのコンビで作られ、テレサの代表曲の一つです。

歌詞は、「あなたが好きだから それでいいのよ」からはじまる、妻子ある男性をただひたすら待ちわびる女性の哀しく切ない気持ちを表現しています。

テレサの歌唱によって、決して実を結ぶことがない哀しい恋が見事に表現された、名曲だと思います。

曲の動画

以下の動画をアップしています
  • 1984年シングル「愛人(あいじん)」バージョン
  • テレサ・テン コンサート・ライブ音声動画(1985年NHKホールでのコンサート)

アーティストの紹介(テレサ・テン)

【アーティスト】テレサ・テン/Teresa Teng(中華圏での名前:鄧麗君/Teng Li-chun/デン・リージュン)
【誕生日】1953年1月29日(1995年1月29日没)
【出身地】台湾(中華民国 台湾省雲林県褒忠郷田洋村)
【活動時期】1967年-1995年
【公式サイト】UNIVERSAL MUSIC JAPAN

アーティストの軌跡

テレサ・テンは台湾の歌手、女優でありながら、「アジアの歌姫」とよばれる、日本及びアジアでもっとも成功したアーティストです。
14歳の時に台湾でプロデビューし、16歳で映画主演し、その後アジアで人気が出ました。

1973年舟木稔氏(彼女が日本のお父さんと呼び、後のトーラスレコード社長)により、日本での日本ポリドール(現:ユニバーサルミュージック)との契約を結び、1974年21歳で日本での音楽活動を開始しました。

当初はアイドル路線で、1974年3月に初シングル「今夜かしら明日かしら」をリリースしましたが、売れ行きは思わしくありませんでした。

そこで演歌歌謡曲路線に変えて、1974年7月に2作目のシングル「空港」をリリースしたところ大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得し、日本での音楽活動は軌道に乗りました。

しかし、1979年2月に入国の際に起こした*旅券法違反で、1年間の国外退去処分を受けました。(*注:当時は、日中国交正常化が結ばれ、逆に中華民国(台湾)と国交が断絶されていて、台湾からの入国は非常に煩雑な手続きが必要だったため、インドネシアの旅券で入国しようとした。しかし、偽旅券ではないので、法的判断はグレーだった。)

この事件で台湾からも非難を受け、身柄の引き渡しを求められましたが、舟木氏によりアメリカへ渡りました。

1年後に、台湾政府への協力を条件に帰国し、中華民国国軍の広告塔として活動しはじめます。
1984年に日本への来日が許可され、同年1月に「つぐない」をリリースし、再デビューをはたしました。この曲は、日本有線大賞などを受賞し大ヒットしました。続く「愛人」の大ヒットで、第36回NHK紅白歌合戦出場に初出場します。

その後も、「時の流れに身をまかせ」も大ヒットとなり、1984年から1986年の間に「日本有線大賞」「全日本優先放送大賞」の両方で、史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞しました。

その後、香港に住居を移し、中国の民主化運動への支援などを行っていましたが、1989年6月4日「天安門事件」が起き、ご両親の生まれ故郷である中国での初のコンサートも中止となり、非情な衝撃や苦痛を受けたようです。

1995年5月8日、タイ・チェンマイにて持病だった喘息発作により、42歳の若さで亡くなられました。私を含め大ファンだった者にとって、ほんとうに残念でしかたありません。

ほんとうに彼女の歌声は、愛や別れ、人生の喜びや悲しみを繊細に表現し、聴く人の心にやさしく深く響きます。
彼女はアジアの歌姫として、今でもその清楚で心に響く歌声で多くの人々を魅了し続けています。彼女は台湾の歌手、女優でありながら、「アジアの歌姫」とよばれる、日本及びアジアでもっとも成功したアーティストです。
14歳の時に台湾でプロデビューし、16歳で映画主演し、その後アジアで人気が出ました。

1973年舟木稔氏(彼女が日本のお父さんと呼び、後のトーラスレコード社長)により、日本での日本ポリドール(現:ユニバーサルミュージック)との契約を結び、1974年21歳で日本での音楽活動を開始しました。

当初はアイドル路線で、1974年3月に初シングル「今夜かしら明日かしら」をリリースしましたが、売れ行きは思わしくありませんでした。

そこで演歌歌謡曲路線に変えて、1974年7月に2作目のシングル「空港」をリリースしたところ大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得し、日本での音楽活動は軌道に乗りました。

しかし、1979年2月に入国の際に起こした*旅券法違反で、1年間の国外退去処分を受けました。
(*注:当時は、日中国交正常化が結ばれ、逆に中華民国(台湾)と国交が断絶されていて、台湾からの入国は非常に煩雑な手続きが必要だったため、インドネシアの旅券で入国しようとした。しかし、偽旅券ではないので、法的判断はグレーだった。)

この事件で台湾からも非難を受け、身柄の引き渡しを求められましたが、舟木氏によりアメリカへ渡りました。

1年後に、台湾政府への協力を条件に帰国し、中華民国国軍の広告塔として活動しはじめます。
1984年に日本への来日が許可され、同年1月に「つぐない」をリリースし、再デビューをはたしました。
この曲は、日本有線大賞などを受賞し大ヒットしました。続く「愛人」の大ヒットで、第36回NHK紅白歌合戦出場に初出場します。

その後も、「時の流れに身をまかせ」も大ヒットとなり、1984年から1986年の間に「日本有線大賞」「全日本優先放送大賞」の両方で、史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞しました。

その後、香港に住居を移し、中国の民主化運動への支援などを行っていましたが、1989年6月4日「天安門事件」が起き、ご両親の生まれ故郷である中国での初のコンサートも中止となり、非情な衝撃や苦痛を受けたようです。

1995年5月8日、タイ・チェンマイにて持病だった喘息発作により、42歳の若さで亡くなりました。私を含め大ファンだった者にとって、ほんとうに残念でしかたありません。

ほんとうに彼女の歌声は、愛や別れ、人生の喜びや悲しみを繊細に表現し、聴く人の心にやさしく深く響きます。
彼女はアジアの歌姫として、今でもその清楚で心に響く歌声で多くの人々を魅了し続けています。

アルバムの紹介

2003年 ゴールデン☆ベスト テレサ・テン

2005年 テレサ・テン ベスト10

2008年 ベスト+ベスト 日本語&中国語ヒット曲聴き比べ

2015年 決定盤 テレサ・テン オリジナル ベスト CD2枚組 WCD-635

2015年 テレサ・テン 40/40 ~ベスト・セレクション

2018年 テレサ・テン ベスト・ヒット65 ~生誕65年 永遠の浪漫~(SHM-CD)

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